最近、感情がない主人公のドラマ多くね?

「福家警部補の挨拶」第一話と第二話を観た。

ひとことでいうなら「ちょっとだけツメが甘い女コロンボ」ちゃんと「君はコロンボか!」というセリフまである。これはいいコンテンツを作りましたねーと思ったらそもそも原作があって、書いた人がコロンボのファンでノベライズも担当したとか。んで5年前に一回NHKでドラマ化してるらしい。そっちは原作ファンも納得で今回のヤツはかなり叩かれている。

驚いたのは人を撲殺するシーンをワンカットでしっかりと見せてるということ。どうやって撮影したんだろう。ホントに頭にガスンって当たってるように見える。ギャスパー・ノエの『アレックス』みたいで度肝抜かれた。説明的なセリフが多いが、描かなくてよいところはしっかり省略していてテンポが良い。特に二話のあえての尻切れトンボ感はシャープでかっこよかった。視聴率はガン下がりだが、恐らくこれは最後まで見続けるパターンである。

ただ「コロンボ/古畑」好きとしてかなり甘めに観てる節があって、やっぱり「どっかで観たことある感」は拭いきれない。それはなんだろうって思ったら、主人公が無感情/無表情で淡々と物事をしゃべるという演出………演出というかキャラクター。今回の壇れいも無表情で突っ立ったまま淡々としゃべりつづける。もっといえばその上司である稲垣吾郎も同じように無表情で淡々としゃべる。

最近ああいうキャラクターが事件解決するってヤツやたら多くないだろうか?そもそもこういうキャラクターが日本のドラマ界でスタンダードになるきっかけは恐らく『女王の教室』だと思うが、そのあと『ガリレオ』が決定打となりこの手のキャラクターが大量生産されることになる。ある意味で『謎解きはディナーのあとで』も抑揚のない一本調子なセリフ回しだったし『鍵のかかった部屋』はそれの最新系だという風に感じた。もっとさかのぼればロボットの役とかがそうなのかもしれないが、普通の人間がこんなことになってるのは珍しいのではないか。そういう部分において日本のドラマはちょっと異常といえる。

先ほどあげたドラマが好きな人には申し訳ないが(ぼくはガリレオ鍵のかかった部屋は好きだけど)、いわゆるこれはその役者だけが出て、なにがしという役名がついていて、立ってしゃべっていればそれだけで満足するという観客が増えてきているということになるのだ。役者のほうとしては演技しなくていいし、セリフさえ覚えてしまえばいいから楽だろう。ミステリーにこの手のキャラが多いのは専門用語などを覚えるだけで精一杯なのと、セリフをしゃべらす尺もあるため、それ以外の抑揚や身体の演技に関してはすべてカットせざるを得ないということなのかもしれない。その反動なのか同じように専門用語がバンバン飛び交う『半沢直樹』のキャラクターは全員異常なほどクドい。

こんなことを考えていたら、押井守鈴木敏夫の対談でいっていたことを思い出した。このブログではおなじみでことあるごとに引用している気がするが、それほどぼくにとって影響を与えた対談である。以下、書き起こし。一部中略。

【押井】今の日本に住んでて自分の身体(しんたい)ってほとんどないもどうぜんっていうね。感覚だけは広がっているんですよ携帯だなんだっていうね。感覚の延長線上にあるものは膨大に広がってるわけ。ここから(頭)下の身体の部分を意識する瞬間ってどれだけあるんだろうかっていうさ。


【鈴木】(『イノセンス』を観て)まず最初になにがおもしろかったかっていったか、まずこの登場人物にね、手や足からだ全体が完全な人間が登場しない。厳密にいえば、いわゆる人間の肉体を持った人が登場しない。主人公のバトーにいたっては脳みそだけが残っててあとは全部機械。で、実は他の登場人物たちも大ざっぱに言えばそうでしょ?じゃあそういう人たちが挙措動作どういう風になるのか?単純にいえば“生気”がないんですよ。そこらへんの設定はおもしろいなと思ったんですよ。なんでかっていったらそれは「現代の人間」ですよね。『マトリックス』観てても感じるんですよ。キアヌ・リーブスってのはいかにも汗かかない主役でしょ?あれ象徴的だと思うんですよ。昔だったらああいう映画の主役ってのはそれこそひたむきに一生懸命に健気に一途っていったら汗かいてね、匂いがしてきて、それであるものを達成する。ところがまるで……汗かかない……それをみんな観て良いと思ってるわけでしょ?


【押井】ある女の人っていうかおばさんが言ってたんだけど、最近の映画に出てくる若い女の子は幽霊みたいだって、いつどこで食べて生活してるかぜんぜんわからない。名前はとりあえずある。顔もあるんだけど、なんか特定できないんですよ。特定しにくい。そういう風なものを好んで描いてるとしか思えない。監督がね。だから身体がないんだよね。


【インタビュアー】かつて押井さんがやってたことを他の監督さんが無意識にやってるってことなんですかね?


【押井】ぼくは意識してやってたつもりなんだけどね。身体を失ったら失ったなりの生き方があるっていうね。

10年前の対談だが、まさにこれは先ほどのドラマの演出を予言したかのようなやりとりだ。つまり身体としての演技はバッサリと切り落とされ、役者にただ別の名前がつき、セリフを発するだけで、役者/キャラクター/主人公として成立してしまう。そして現代の観客はそれで満足している。これはよく考えたら恐ろしいことではないだろうか。10年以上前に押井守がやって「あの人のアニメはキャラクターが突っ立ってるだけで長台詞をしゃべり続けるから眠たくなる」といわれてたことが、ある種のスタンダードになったわけだ。

いまでこそ脇にコメディリリーフ的な存在がいて、それが無感情なキャラクターとのコントラストになっているが、近い将来日本のドラマはすべての登場人物が無感情になる可能性があるということである………というのはいいすぎにしても、こういう主人公がこれからどんどん増えていくかもしれない。ドラマや映画はつねに時代を写し出しているものなのだ。意識的にせよ、無意識的にせよ。

【追記】『SHERLOCK』もそうじゃね?という意見をいただいた。確かにそうだ!!しかもあれも事件を解く系!この共通点はなんなんだ!!