ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑でつかまえて』を読み始める。いやぁまさかこうやって別訳を読むまでハマるとは思わなかったよね。ホントに尾崎豊とかを濃くした感じですよ、言葉の1つ1つや主人公の心情が刺さるんですよね。つまり『夜の校舎窓ガラス壊してまわった』以上の濃さがあるんですよ。

ライ麦畑でつかまえて』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を比べると、前者はちょっと不良っぽい感じで攻撃的ですけど、後者は内向的な感じで、悩める少年っていう雰囲気があるんですよ。どっちもイノセントっぽいんですけどね、だから本当に訳によってはがらっと印象が変わってしまうんですねぇ。やっぱり美空ひばりの曲を桑田圭祐がカバーするくらいの違いはあるんかもしれん。ただ『ライ麦畑でつかまえて』はね、戦後の話という事と若者の雰囲気を意識しすぎて、ちょい今読むと古いんですよ。なんだろう『ダイハード』に若干の古さを感じると言えばいいんでしょうかね。例えば、「奴(やっこ)さん」とか『煙草のみ』とか『つんぼ』とか今の人は誰も言わないでしょう。語尾に「なんだぜ」とか「いまんとこ」とか言うのは当時の文学界ではビックリされたのではないかな。『今の所』じゃなくて語感にこだわって「いまんとこ」とかはちょっと感動したね。スガシカオの「やらかい」みたいなもんかな、「柔らかい」が「やらかい」になるみたいな。でも、語りじゃないですか、文章自体が、それ自体に違和感を感じてしまうと辛いかもしれませんな。この訳が嫌いな人も多いと思いますよ、やっぱしあんな口調で喋る人いないですもんね。

まだ最初しか読んでないけども、個人的には『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方が好き。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方が、尾崎とかブルーハーツが描いた青春に近い感じがする。『ライ麦畑でつかまえて』は翻訳にちょっとだけ無理があるような感じがするんですよね。それは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだあとだから感じる事かもしれないけども。まぁ、これは好き嫌いであって、どっちが悪いとかいうレベルではないんですが。

ただ、今日は親父と飯を食いながら話したけども。私はね、こういう人間の持ってる嫌な部分とか、人が大きな声に出して言えない様な事をさらけ出してる小説って好きみたいですね。『氷点』しかり、『溺れる魚』も刑事が現場においてあった金を着服するって言うエピソードがあって、こういうのって人間の心理の奥底にはあるもんだと思うんですよ。ヤクザの事務所に踏み込んでいって、誰も見てないやって思うと、そういう心理って働く気がするし。

太宰の『人間失格』だったかな、鉄棒からわざと落ちて、計画的に笑いを取ると、んで、自分からしてみたらそれはしてやったりな構図なのに、それを見破られると不安になったり恐怖に感じるとか。人間が最も突かれたくない、小さい部分にまで文章にするってやっぱり凄い事ですしね。だから桐野夏生っていう作家も好きですけど、彼女の本では『OUT』が一番おもしろいけど、『柔らかな頬』とか『グロテスク』も大好きですね、こっちの方が人間の内部に迫ってる感じがするから。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でもあるじゃないですか、すごくイヤなヤツがいて、そいつの事を殺す事を想像すると。そういうのがすごくリアルだし、共感出来るし、それが人間ですから。

主人公はスポーツは苦手、ケンカも弱い、すべての大人達を批判し、社会を批判する。こういうのが青春であってかっこいいんですよ、やっぱりこの本大好きだぁ!